常磐線で茨城県を進むと車窓に海が映る。夏、海見たい。特に磯原あたりは奇岩も見えて、駅から海岸まで近いようなので行ってみた
18きっぷで東京から仙台へ帰省する途中のこと
磯原駅前
鳩かと思った鳥の像はカラスだった
磯原は作詞家野口雨情の故郷で、歌詞のモチーフが町に飾られていた。上のカラスの像は「七つの子」より。聞き逃したけれど電車の発車メロディもその曲だったらしい
「証城寺の狸囃子」
町の名物からくり時計
尾形山横穴群夢窓窟というのも気になったので海より先に向かった
夢窓窟とは、あの夢窓国師にまつわる場所だという。駅から5分くらいで入口らしき場所に着き、辺りを見渡した
左見て
右見て
家?
右手に堂々とした玄関付きの横穴がある。手前の壁は普通の今どきの家だ。横穴群の案内板はない。とりあえず写真を撮っていると手前の家からおじいさんが出てきて、無断撮影に怒られる?と思った。
横穴を案内してくれた
〝あっちはおれげ(おれの家)で掘った防空壕〟
すぐさま夢窓窟を見に来た旨を話すと、家の裏に広がる原っぱへ連れて行ってくれた。おじいさんが言うには、原っぱには「尾形山横穴群夢窓窟」の史跡案内板があったが、市の観光協会が直していて今はないそうだ。しかしおじいさんから約1時間に渡って話を聞くことができた
横穴は草木の影になっていて目立たない
おじいさんの言葉を要約する。
〝子供の頃、横穴に骨なんかは入っていなかったのでお墓(古墳)とは知らずに中に入り、原っぱでは野球をした。穴の中にはシナの刀剣が入っていて遊び道具にしていたが、戦争が始まると剣は軍に持って行かれた。家の鍋など鉄は何でも徴収された。穴は防空壕となった。入り口の形が違うものは防空壕として昭和に掘ったものだ。小学生の頃、親と「つるっぱし」一つで掘った。
戦争が終わるとそこは古墳であり夢窓国師が悟りを開いた場所だから、遊び場にしてはいけないと言われた。そのうち原っぱには平屋が5軒ほど建ち、信心深い人々が集まってお坊さんを呼び、念仏講が行われ穴は祀られた。原っぱはお年寄りの社交場となった〟
穴の手前に石仏のようなものが見える
〝住人たちが老いて亡くなり、念仏講を行う者がいなくなると原っぱは荒れた。家屋が撤去されるとき業者は宗教的なものは処理できないとして、横穴のまわりは放置された〟
住人たちが使っていた井戸
のちに横穴は夢窓窟と呼ばれる市の文化財となったけれど現在、原っぱは荒れたままだ。おじいさんは自宅裏のことなので案じて市へ抗議したが『そのうち行きますから』との返答、一部私有地としている地主には『穴掘ったのはおれじゃないから…』と言われたらしい。
史跡案内板は修理のため外されたまま。写真中央にわくだけある
鬱蒼として穴に近付けない。蚊がたくさんいた
市による除草は3年に一度きりだけれど今度、他市町からの視察が来るため『掃除しないとなあ』と担当者が言ったそうだ。これに対しおじいさんは〝何言ってんだ今ごろ。そのままにしておいて恥を知れ〟というようなことを言っていた。
原っぱにはかつておじいさんの祖父が通った寺子屋もあった。また別の時代には原っぱの向かいにトロッコが走る炭鉱があったという
軌道。奥が炭鉱
初めに見た玄関付きの穴はおじいさんの倉庫だった。扉は家を建て替える時に取っておいたもので、昔はこの中で海水から塩を作っていたとか。何から何まで教えてくれた。
握手をしておじいさんと別れた
怒濤のヒストリーと茨城弁と蚊と暑さだった。ここまでの文に誤りがあるかもしれないが、4か所蚊に刺されながら聞いたので許してほしい
さて海へ向かう。駅を介して行くと観光案内所があったので係のお姉さんに尋ねると、海岸までは歩いて十数分で着くけれど、砂浜のあるポスターのような場所へは30分かかるらしい
おじいさんの天敵の観光協会だ
ポスターを見て、自分が車窓から気にしていた奇岩らしきものは写真の「二ツ島」かもしれない、とお姉さんに話すと〝電車から見えるかな?〟と言われた。ふだん電車に乗らないため知らないらしい
磯原駅から次の大津港駅までの距離は常磐線内でいちばん離れていて、二ツ島は中間にあるそうだ
お姉さんは〝遠いし暑いからできるものなら車で送ってあげたい〟と言ってくれた。案内のプロが言うのだから本当におすすめの場所なのだろう。是非行ってみたいが自分には時間がなくなってきたので、後日に改めることにした
歩道橋から少し眺めた海
観光案内所がある駅から窓の外に目をやると人だかりが見えて、あれは何ですかとお姉さんに尋ねると肉屋だった。お姉さんも好きな店で〝昨日は夕飯にチューリップを買った〟という。
海はやめて、そこを最後の地にしよう
チューリップを電車で食べて美味しかった
下はコロッケ。メンチカツは売り切れていた
お姉さん、これが車窓から見た二ツ島です
左端かすかに